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平均は存在しない?【平均思考は捨てなさい】

 さまざまな場所で「平均●●」という数字を目にします。平均体重に平均身長、ニュースや新聞などでよく目にするのは平均年収や平均寿命。平均という言葉で思い浮かべるのは「真ん中あたり」「いちばん一般的な数字、代表的な数字」という意味ではないかと思います。

 

 出る杭は打たれるなどのことわざもあるように、なんとなく平均あたりを目指せば良い、平均から外れなければ良いというのは日本人的な発想として馴染み深いのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

平均思考は捨てなさい

 

 

 トッド・ローズの「平均思考は捨てなさい」の書評です。この本を知るきっかけとなったのは勝間和代さんのyoutube動画で紹介されており、非常に面白そうだと思ったので手に取りました。

 

 

 


勝間和代のブックレビュー。4冊目「平均思考は捨てなさい」。これまで、私達が縛られてきた「平均」というものは実は幻であり、多くの場面では役に立たないことを教えてくれます。

 

 

 本書冒頭で紹介されているアメリカ空軍の話が印象的で、私たちが思い描く平均と実際の意味は異なることが示されています。

 

 アメリカ空軍ではかつて、戦闘機のコックピットを設計する時にパイロットの身長や腕・足の長さなどの測定、その平均をもとにして作られたそうです。しかしその結果事故が多発。その原因を探るところから本書は始まります。

 

パイロットの身体測定を空軍から任されたとき、平均に基づいた軍の設計思想がほぼ1世紀ぶりに、覆されることをダニエルズは密かに確認していた。航空医学研究所で手や足やウエストや額を測定しながら、ダニエルズは頭のなかで同じ質問を繰り返した。実際のところ、平均的なパイロットは何人存在するのだろうか。(中略)かなりの人数のパイロットが、一〇項目すべてに関して平均の範囲内に収まるだろうと科学者たちも予想した。しかし実際の数字がまとめられると、ダニエルズさえも衝撃を受けた。
 結果はゼロ。

 

 実は平均に合致するパイロットはひとりもいなかったのです。

 

四〇三人のパイロットのなかで、一〇項目すべてが平均の範囲内におさまったケースはひとつもなかったのである。平均と比べて腕が長く、足が短いパイロットがいるかと思えば、胸回りは大きいのに腰回りの小さいパイロットも確認された。それだけではない。一〇項目を三項目に絞り込み、たとえば首回り、腿周り、手首回りに注目してみても、三つに関してすべて平均値におさまるパイロットは三・五%に満たなかったのである。ダニエルズが発見した答えは明快で、議論の余地がなかった。平均的なパイロットなど、存在しないのである。つまり、平均的なパイロットにフィットするコックピットをデザインしたら、実際には誰にもふさわしくないコックピットが出来上がるのだ。

 

 

 

 すべての数値を測り合計を対象の数で割るという平均の概念を習ったのは小学生でしょうか。幼い頃から馴染みのある数字は、実は私たちが想定している意味を表現していないということが示され、平均という概念はどのように生まれたのか、平均の罠から抜け出すにはどうすれば良いのかということが詳述されています。

 

 

 

 

グーグルもデロイトもマイクロソフトも、どこがいけなかったのだろう。これらの革新的な企業はいずれも当初、平均主義的な見解にしたがい、個人を評価するうえでランク付けは効果的だと信じた。ひとつのことに秀でている人間は、ほとんどの物事にも秀でているというフランシス・ゴルトンの説に基づいた発想だ。(中略)しかしグーグルもデロイトもマイクロソフトも、才能を数字で要約し、味気ない平均と比較するという発想は、機能しないという現実を突きつけられた。しかし、それはなぜだろう。ランク付けが予想外に失敗した根本的原因は、何だったのだろうか。
 それは一次元的な思考である。(中略)

平均の時代において学校や企業などの社会的期間は、人びとの長所を成績、IQテストの点数、給与など、ひとつの基準で比較するよう奨励した。おかげで私たちの心は、一次元的思考への偏重を自然に強めてしまった。

 

 

 

 

答えを求められているのが「どちらの男性のほうが背が高いのか」という質問ならば、答えは簡単だろう。身長は一次元的で、ひとつの要素しか関わらないのだから、背の高さによって人びとをランク付けするのはまったく許容範囲である。しかし人間の体のサイズとなると、話はべつだ。たくさんの異なった箇所が要素となるが、お互いの関連性は強くない。(中略)

実際のところダニエルズによれば、九つの寸法のうち四つ以上が平均値に収まったパイロットは全体の2パーセントにも満たず、すべてが平均値の人物はひとりもいなかった。

 

 

 

キャテルは数年間にわたり、コロンビア大学に入学する何百人もの新入生を対象に、総合的な体力テストと知能テストを実施した。具体的には音に反応する時間、色を識別する能力、一〇秒が経過したタイミングを判断する能力、アルファベット文字を記録して思い出す能力などが試された。これらのあいだには強い相関が存在するはずだとキャテルは確信していたが、実際の結果は正反対だった。相関関係はほとんど見られなかったのだ。知能には明らかにバラツキがあった。

 

 

 

 

ブルームが各グループの生徒の学習成果を比較すると、驚くような結果が得られた。従来の方法で学んだ生徒たちは、速いほど賢いと信じる人たちの予想通りの結果を残した。一連の講義が終了したとき、教材をマスターした生徒はおよそ二〇パーセントだった。成績が非常に悪い生徒も同様に少しの割合で、大多数は真ん中あたりに分布していた。対照的に、マイペースで学習したグループでは、九〇パーセント以上が成績優秀者として評価されたのである。(中略)

当然ながらここからは、明白で厳然たる事実が論理的に導き出される。決められたペースで学ぶことを生徒に要求しているおかげで、多くの学生の学習能力や成功の可能性が不当に損なわれている。実際のところマスターできる生徒がひとりでもいる教科は、学習ペースの調整を許されるかぎり、ほとんどの生徒がマスターできるものだと考えて間違いない。

 

 

「でも、おまえは作動記憶があまり良くないよな。それなのに、苦手な作動記憶に頼る方法を使おうとするなんて、おかしくないか」と父は言った。実は父は、私の幾何学の成績は良いことを知っていた。「おまえも、視覚的思考は優れているじゃないか。問題解決に生かしてみたらどうだろう」(中略)作動記憶は私にとって知能のなかで最も弱い要素のひとつなのに、いつまでも頼り続けて問題を解こうとしたのがいけなかったのだ。父のサポートによって自分の長所を生かす戦略が出来上がると、ようやく正しく解答できるようになり、隠されていた本当の才能は発揮されたのである。

 

 

 かつて受けていた教育、報道、世間一般の理解など、平均の概念は世界中に染み付いており、そのバイアスから抜け出すには三つの原理、すなわちバラツキの原理、コンテキストの原理、迂回路の原理の三つが有用であると提示されています。

 

 特に一般的に平均の概念が示されるのは「頭が良い」という言葉ではないでしょうか。実際に頭が良いという意味には、記憶力が良い、ロジカルである、コミュ力がある、文章がうまい、独創的だ、計算が早い、先見性がある、などさまざまな意味が含まれています。しかし、頭が良いという言葉があてはまる人はこれらのすべて、あるいは多くが同時にあてはまるような印象がありますが実際はかなりバラツキがあるとのこと。言われてみればたしかにそうだと思うことです。

 

 

 読めば、ばらつきがあるのが通常の世界であるということが明確に理解でき、人や物事を見る目が変わること間違いなしの一冊。すべての人が教養として身に付けておきたい内容だと思いました。

 

 

 

 

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