【「遊ぶ」が勝ち 『ホモ・ルーデンス』で、君も跳べ! 】遊びは人間に与えられた「本能」
最近はあまりやらなくなってしまいましたがゲームが好きです。そのことをある方と話していた時に、「ゲームは生産的ではないので、やらないようにしてる」と言われたことがあります。
おそらく実利がない、自分の収益や将来の役に立たないという意味だと思いますが少し引っかかりました。
何かを追求するのは人間の本能
生きる上でどれぐらいの生産的であるか(どれぐらい効率よく収益をあげるか)や、どういう仕事をするかはそれぞれの価値観だと思います。ですが、とにかく生産的であることが最上の価値であるという風潮が色々なメディアを見ていると感じてしまいます。
それはそれで構わないのですが、それ以外の価値を認めなかったり、意味がないというように排斥するというような立場は、とても限られた物の見方であると感じてしまいます。生産的である、ということも数ある物差しの一つにすぎません。
生産的でないこと、中でも遊ぶということはどういうことか。以前読んだ為末大さんのこちらの本が参考になりましたので紹介したいと思います。
「遊ぶ」が勝ち 『ホモ・ルーデンス』で、君も跳べ! (中公新書ラクレ)
- 作者: 為末大
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2013/05/09
- メディア: 新書
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われわれ人間はつねにより高いものを追い求める存在で、それが現世の名誉や優越であろうと、または地上的なものを超越した勝利であろうと、とにかくわれわれは、そういうものを追求する本性を備えている。 そしてそういう努力を実現するために、人間に先天的に与えられている機能、それが遊びなのだ。
悩みというものの多くは、視点が固定されていることから生まれる。だとするなら。悩んでいる人は特に、引くとかズラすという遊びの感覚を駆使して距離を取り、自分の中に余白や緩みや隙間を作ってきくことが大事だと思う。
母親というのも、一つの役割に過ぎない。物事にはいくつもの側面がある。
命令されてする遊び、そんなものはもう遊びではない。
遊びの面白さは、どんな分析も、どんな論理的解釈も受け付けない。
人は、事実について議論しているように見えてもだいたいは事実そのものではなくて、個々の人の認識について議論を交わしているのだと思う。つまり、私の目からはこう見えているあなたもそうだろう、という認識と、いや私はそう見えてないという認識を戦わせているのだ。
若い時は、「日本一の選手がやっていた練習をやりさえすれば速くなる」と思い込んでいた。そして、必死にその方法に取り組んでみて。けれども、速くならなかった。どこかに勝てる手法があり、それをきちんとやった人が勝つという方程式そのものが間違っているのではないか、と気づいた。
まっすぐに進むと言われても、そもそも何がまっすぐなのかがお互いに共有されていなければ、コミュニケーションは成り立たない。
原著のホモ・ルーデンスは非常に有名な本ですがまだ読んだことがないので、この機会に読んでみたいと感じました。
為末さんが以前に書かれた「諦める力」もそうですが、読むといままで常識と思っていたことが一つの見方にすぎないことがよくわかります。悩んでいるときに読むと、色々なヒントが得られるのではないかと思いました。
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