ミニマリスト ひかるの本棚

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善悪とは何か。 善の根拠について

善と悪。なぜだかわかりませんが、このことは昔からずっと考えてきたテーマの一つです。つまり、善いこと、悪いことはどのように決まるのかということです。

 

 

変わる価値観

 

書評です。

 

善の言葉の意味は僕の持っているデジタル大辞泉によると、

 

よいこと。道理にかなったこと。また、そのようなおこない 

 

では道理とはなにかと調べてみると、

 

①物事がそうあるべきすじみち。ことわり。わけ。
② 人の行うべき正しい道。「―にかなった行為」

とあります。ここからは辞書ではなくじぶんが考える必要が出てくるのですが、正しい、間違い、善悪、正義。こういうものをいったん考え出すと必ずひとつの疑問につきあたらざるをえません。

 

 

つまり、じゃあその根拠は?

 

 

もし根拠をこれだと思ったとしても、その根拠を根拠づけているものはなにかという疑問が湧き上がってきます。こうなると疑問が循環しだしてしまい、疑問が別の疑問を呼んできてしまい結局答えが出せなくなってしまいます。不変の答えがあればの話ですが。

 

 

善の根拠

 

善の根拠 (講談社現代新書)

善の根拠 (講談社現代新書)

 

 

恐山の院代で、数多くの著作を出されている南直哉さんの書かれた新書です。SNSやインターネットで多様な価値観や生き方を発信できる一方、多様すぎて目まぐるしく感じる方も多いのではないでしょうか。

 

そんな方におすすめの書籍です。

 

 

つまり、何が善で何が悪かということをいくら考えようとしても、おそらくそれは結局、「それはなぜ?」という問いが繰り返し出てくる。

 

「人殺しはいけない」ことを理論的に「説明」することは不可能である。「ダメなものはダメだ」と断言しても、それを納得するかどうかは人それぞれだろう。それは自死の場合と同じである。
 そうではなくて、「他者に課せられた自己」を受容する意志において、殺さないと決め、受容の決断において、そう覚悟する他はない。

 

 

人は取引をするために生まれてくるわけではない。稼ぐために生きているのではない。生まれてくれば取り引きすることもあり、生きているから稼ぐ必要もある、というにすぎない。
 ところが、過度の市場化は、経済を超えて実存の全体を侵食していく。存在するがゆえに所有するのではなく、所有するがゆえに存在するかのごとくに錯覚する。そうなれば、実存の無常はまるで自覚されないだろう。貨幣をそれ自体に価値があるもののように実体視して、結果、貨幣や物の所有が「自己」存在に根拠を与えると錯誤する。

 

 
「常」であるということは、何ものかについてそれが不変であるという意味だろう。この不変の「何ものか」を「我」と言うのであって、ある存在の仕方を決める根拠となる「実体」を指す。「無常」「無我」はそうした「我」「実体」を想定しない考え方である。
 これを「自己」に適用すれば、「自己」に「自己である」根拠は無く、誕生いらい今日までの「自己」を規定するいかなる「実体」も考えられない、ということになる。
 となれば、根拠となる「実体」が規定できないまま、あるものがあるものとして存在するのはどういうわけか、と問われる。これに対して仏教が提案するアイデアが先述した「縁起」だ。つまり、ある存在はそれ以外の存在との関係から生成する、という意味である。これを再び「自己」に当てはめれば、すでに述べた「他者に課された存在」として「自己」を考える、ということになる。

 

仏に帰依するなら、「自己」を否定するために、「自己」の受容に賭けなければならない。この「自己」を「自己」責任で開始しなければならない。
「自己」が仏を信じて成仏の道を選んだこと、ここにおいて、善悪が発生する。仏に帰依した「自己」は、「ブッダ」になる道に利益となるものを「善」とし、この道を妨害するものを「悪」と決めるのだ。

 

「罪」や「過誤」という概念は、何らかの「正しい」とされるルールの存在を前提として成立する。このとき、その「正しさ」を保証する考え方がイデオロギーである。
 したがって、このイデオロギー自体が「正しさ」を保証する確実な根拠を持たなければならない。だが、それは不可能である。
「自己」が「他者に課せられる」という構造を持つ以上、イデオロギーも「他者」に媒介され「自己」にもたらされる。
 このとき「他者」の内部に、イデオロギーの根拠など置けるはずもない。なぜなら、「他者」も「自己」として存在する以上、イデオロギーは別の「他者」に引き渡されて無限に遡及するからだ。
 すると、この遡及を打ち止めにするためには、根拠は「他者」の外側に出なければならない。その外は、一神教なら「神」だろうし、仏教ならば「無常」である。

 

もともと彼の出演している書籍はほとんど読んでいましたし、出演しているテレビもこまめに見ていました。ぼく自身が小さい頃から考えていた疑問に様々なヒントを与えてくれたお坊さんです。

 

存在とはなにか。生きるとは。こんなことを考えたことのある方であれば多くの気づきを得られる著作だと思います。

 

 

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