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【おひとりさまの老後】高齢シングルの老い方・生き方

 年金や資産運用についてのニュースが尽きませんが、そもそもぼくらが老いた時に直面する問題はお金のことだけではなく、家族・友人との関係、身体の状態などいろいろな変化が起こります。

 

 

 

 

 

老後のひとりの生き方

 先日読んだ東京大学の社会学者、上野千鶴子さんの「おひとりさまの老後」の書評です。

 

おひとりさまの老後 (文春文庫)

おひとりさまの老後 (文春文庫)

 

 

 介護士として働いているため、福祉関連の本などの本は積極的に読むようにしているのですが、こちらは高齢者の立場から書かれた(まだまだ非常にお若いように思いますが)老いについて、高齢シングルになること、シングルで生きるということはどういうことかを書かれた一冊でした。

 

 多くの女性は高齢シングルになるということ、配偶者に先だたれた際の反応の仕方の男女差など知識として非常に面白く読める部分も多かったのですが、介護士として興味深く読んだのは、やはり介護についての項目。特に高齢者の立場から、介護に期待していることや期待してはいけないことなどについて論じられている部分については、納得するとともに自分自身も気をつけなければならないなと思わされることが多くありました。

 

 高齢になってからの友人との付き合い方や、どういう人を友達にするべきかという内容は高齢でなくても十分参考になるのではないかと思います。

 

 気になった箇所を引用します。

 

 

 

メンテナンスのいらないのが家族、と思っている向きもあるようだが、これは完全なカンちがい。家族のメンテナンスを怠ってきたからこそ、男は家庭に居場所を失ったのだ。ほうっておいても保つような関係は、関係とはいわない。無関係、というのだ。

 

 

 

 

「職場に友だちができません」と嘆くひとがいるが、職場に友人ら求めないほうがよい。同僚のあいだに友人を求めるのは最後の選択肢。同僚はいつでもあなたの潜在的なライバルだったり、評価者だったりするからだ。友人は、利害関係のない異業種に求めるにかぎる。欲得なしで、こちらを受け入れてくれるからだ。

 

 

 

 

趣味のサークルやボランティア活動に参加すれば、自分とはまったくちがう暮らし方をしているさまざまな異業種のひとびとに出会う。そのひとは、ただあなたがいっしょにいて楽しいという理由だけで時間をともにしてくれるはずだ。

 

 

 

「いっしょにいて楽しい」と思われるには、「おもしろいひと」や「話題の豊富なひと」にならなければならないと思いこむのも、カンちがいのひとつ。「話題の豊富なひと」とは、「自分からしゃべってばかりいるひと」の代名詞だから、こんなひとが好かれるわけがない。他人の話など立て続けに聞かされても、うんざりするだけだ。

 

 

 

 

ほんとうに大切な友人はたくさんはいらない。近くにいなくてもよい。ご近所づきあいやお食事仲間に、自分の心の奥深いひだまで見せる必要なんてない。自分の理解者だと思える友人がこの世のどこかにいて、いつでも手をふれば応えてくれる。そう思えるのは、どんなに幸せなことか。老いるとは、こういう友人がひとり、またひとりとこの世を去るさみしさかもしれない。

 

 

 

 

死の前日までピンピン元気でいて、ある日コロリと逝くのが、老いと死の理想だとか。長野発のこのPPK運動は全国にひろがり、老人会でPPK体操を全員でやるところもあるという。聞いて背筋が寒くなった。ファシズムじゃ……(中略)
少しでも社会のお荷物になりそうなもの、規格外れの異物を排除しようというこの「人間の品質管理」の思想が、ファシズムでなくてなんだっ、と感じたのだ。それ以来、わたしはことあるごとにPPK撲滅をうったえているのだが、いっこうにPPK主義者はなくなりそうもない。

 

 

 

 

介護される側の大先輩、柳沢圭子さんは、「誰かにしてもらうときは、してくれる人の基準にこちらが合わせる方がよい」という。プロのヘルパーさんは彼女の基準に合わせようと気をつかってくれるが、結局、ヘルパーさんの基準にこちらが合わせるほうがスムーズにいく、という経験をしている。

 

 

 

 

カネを払えばだれでもお客様だが、これまでの研究からわかっていることは、「顧客満足度」が介護についてはほとんどあてにならないことだ。
理由の第一は、介護される側がいわば介護を受ける初心者で、なにがよい介護か判断する基準をもたないこと。
理由の第二は、くらべるほどの選択肢をもたないこと。
理由の第三は、イヤなことがあってもそれを相手に伝達できないこと。とりわけ自分のカラダをあずける相手に、ネガティブなことを伝えるのはむずかしい。

 

 

 

わたしが尊厳死に疑問をもつのは、自分が元気なときに書いた日付入りの延命拒否の意思など、その場になってみればどう変わるかわからないからだ。人間は弱い。動揺する。昨日考えたことを、今日になって翻すこともある。過去の日付入りの意思を貫徹することが、尊いことだとも、りっぱだとも思わない。(中略)
助けてと言ったときにだれも助けてくれるひとがいなければ、こんなに哀しいことはない。こういうときのためにセーフティネット、つまり、いつでも泣き言を聞いてくれ、困ったときに助けてくれるひとを調達し、かつメンテナンスしておくこと。友人とは、そのためのものだ。

 

 

 友人に関する内容が多く目に止まったのは、特に高齢になってからは社会的な繋がりがとても重要だと思ったから。友人や配偶者などと死別してしまうと、本当に周囲との関係が希薄になってしまい孤立してしまいます。大切な友人との関係は一朝一夕で育まれるものではないし、メンテナンスも必要。今でも整えておくべき内容と感じました。

 

 

 

 

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